電子立国日本を育てた男―八木秀次と独創者たち
「電子立国日本を育てた男」松尾博志(図書館)を読む。面白い。
科学者伝記。又は綿密な取材を基にした小説。
主に八木アンテナで知られる八木秀次の生涯を描くが、湯川秀樹についても多くの頁が割かれている。この辺は構成の失敗のような気もするけど、湯川秀樹の萌えキャラっぷりに免じて許す。
口がまわらず、周囲から鈍いのでは?と思われていた湯川だが、如才ない(でも病弱)朝永振一郎にだけは気兼ねなく話せる。朝永は「実は俺のライバルは こいつだな」と認めてもいたが自分の方が優れているとも自負してた。が、湯川のプライドの高さまでは朝永は見抜いていない。湯川は世界の素粒子物理学の流れの速さにあせり、高校3年生の時に「早く研究を始めないと自分のやる仕事がなくなってしまう」と地団太踏んだという。当時の天才ハイゼンベルクフェルミディラック等は23才や24才の若さで大きな仕事を為していた。戦前の科学後進国日本*1で物理の巨人にこうも対等意識を持てる事自体が奇跡だった様子。
学会発表前に自信のない湯川が朝永に対して雪の積もった*2校庭に小枝で次々と数式を書いてみせて意見を聞くという情景は科学史屈指の萌えシーンかと。
.
基本的にはドロドロした科学史の話である。
学者は"知"の信奉者であって、自由な科学の議論をしてると思われがちだが、学者の序列は厳然と存在し*3、一般人は聞いた事もない学者内部にしか通用しない賞に血道を上げる。常に相手を値踏みし、些細な言葉遣いや態度の違いから序列はわかる。
八木アンテナの応用研究をした宇田新太郎は「八木アンテナ」ではなく「八木・宇田アンテナ」と呼ぶ事にこだわり、その呼称を広めた。八木の葬儀中、弔辞で「八木アンテナ」が連呼されたのを聞いた宇田は気分が悪くなり、救急車に乗ったと本書で描かれる*4
ああ、なんか言葉を広めようとするのは凄くわかる。 "パラドキシカル"と"パラドクシカル"、"サステナブル"と"サスティナブル"で前者の語を応援してはてなキーワード作ったりしてるから*5。"萌えおこし"とかも作った*6
宇田は自分の墓には「八木・宇田アンテナ」を付けてくれと遺言したという。さすがに実現されず、墓にアンテナを彫ることで代替。
.
八木アンテナの発明経緯だが、東北大 学生の西村雄二の卒論実験*7に異常な数値が出たところから始まる(1924年=大正13年)。異常現象の再現/理論づけを八木の指示で杉本武雄(実験助手)が引き継ぐ。八木の示唆で金属の棒でも同様の現象というか、より強い現象が再現される事がわかる。1925年(大正14年)夏、長短10本の金属棒を組み合わせて八木アンテナができる。
八木アンテナとは何か。それまで"電波は発すると全方向に拡散する"と思われ、そう利用されてきた。八木アンテナは電波を或る方向へ強く送信する事を可能とし、或る方向からの電波を強く受信する事を可能とした*8。八木は自分で"指向性アンテナ"と名付けた。(八木アンテナは自称ではなく他称)
画期的だが、問題はある。八木アンテナの扱う電波が超短波である、という事。遠方に飛ぶ長波の無線利用から段々と波長の短い電波の利用が予想されていたが、当時は短波の利用が始まったばかりの段階だった。超短波の指向性アンテナができたところで利用法は特に何もない。
八木は実用化と理論研究を宇田新太郎に引継ぎ、自身は特許申請をする。1925年(大正14年)年末に申請し、1926年(大正15年)に受理。実用性もないのによく通ったな、と。宇田は八木アンテナを使い、超短波無線電話を模索する。7年間のその研究で宇田は幾つもの賞を得たそうだが読んでて腑に落ちなかった。1941年(昭和16年)、八木アンテナの日本での特許は、八木の特許延長申請を拒絶して期限切れとなった。これは宇田の実用化研究が失敗に終わった事を意味するのではないだろうか。
wiki*9での「八木・宇田アンテナ」の説明に宇田が八木アンテナの実用化に益した旨書かれてるが何の事を指しているかわからない。八木アンテナは海外で実用化される。
.
八木アンテナは戦後のテレビ放送受信に使用されたが、まず軍事利用された。
英米の戦闘機や艦隊に八木アンテナがつけられ、無線電話として使用。又レーダーとして使われる。アメリカはレーダー開発に数千人の研究者技術者を動員した。レーダーの登場により、日本海軍は夜襲しては返り討ちにあい、狙い撃ちにされた。
また原爆にも八木アンテナがつけられ、地面に向かって電波を放射して計測し、最も被害が大きくなる高度で爆発するよう働いた。
日本のレーダーで活躍したのは千葉県勝浦の灯台付近に設置された「1号1型」。東京方面への空襲に対して警戒警報を発し続けた。
.
八木は第二次世界大戦時、出世して技術院総裁になっていた。敵に使われていた八木アンテナを発明した先見性を買われたようだ。
兵器開発について三木武夫議員からの国会質問に対し、こう答弁している。
「必死ならざる必中兵器」を「近い将来」実用化するから技術院を信頼して欲しい、と。
「必死ならざる必中兵器」は必死必中と形容された神風特攻隊を止めさせる兵器のこと。熱源探知で自動追尾する対艦ミサイルを開発中だった。が「近い将来」発言は空手形となり、結局実現を見なかった。
八木は風船爆弾にも上司として関わっている。風船爆弾については「悠長でファンタジーな兵器だなぁ」とほのぼのした感想を持っていたのだが、やりようによっては細菌兵器として使うことができたのか。怖。ジュネーブ条約*10を遵守したのか、結局そういう使い方はしなかったが。
風船爆弾アメリカ本土への直接攻撃という事で、かなりの心理的衝撃を与えたようだ。1945年(昭和20年)タイム誌で記事になって以降、米国内では報道規制が行われ風船爆弾の記事は消えた。米軍は細菌兵器に備えて大量の消毒薬を西部各州に配布し、空軍は風船爆弾の撃墜に戦闘機を巡回させた。日本兵が風船に乗って来襲してくるのでは?と"何をやりだすかわからない日本軍"を過大に見積もった声もアメリカ政府から出る。
日本側はアメリカ国内報道で無反応なのを見て「風船は ほとんど届いてないのではないか」と疑う声が主流になり作戦を終了させる。
読中、ひょっとして"日系人の強制収容"は風船爆弾と関係あるのかな、と思い前後関係を調べてみた。つまり、アメリカ政府は「日系人風船爆弾の米国内の風評について日本へ手紙を書くのを恐れたのかな」と。調べると、日系人他の強制収容開始は1942年(昭和17年)2月、風船爆弾は1944年(昭和19年)11月〜翌4月で時系列的には無関係か。
また、怪力線の兵器開発も八木は指導する事になる。八木の超短波研究は世間から「殺人光線」の研究をしているのではと長年ずっと疑われていた。八木は そんな研究をしてないと度々否定し、また「殺人光線」という外聞の悪い語を消滅させようと「怪力線」という語を使った。
軍の強い要望により「怪力線」研究*11は始められる。モルモット・ウサギ・サルと動物実験は進んだが、実用化はされなかった。原理は電子レンジと同じ。登戸(神奈川県)の研究所で行われていたそうだが、京極堂のアレか。
.
本書は戦後の八木については あまり頁を割いていない。何で八木アンテナ株式会社は地元大宮にあるのだろうという俺の疑問は保留のまま。
テレビの父 高柳健次郎と八木の“6メガ・7メガ論争”はちょっと面白かった。日本のテレビ放送は どの技術標準に依拠するべきかという草創期の論争。
NHK-高柳が7メガ派。正力松太郎-八木が6メガ派。
7メガ派のメリット
・カラー化の際、色が綺麗だ
真空管が少なくてすむ
6メガ派のメリット
・同一地域で多くの局が放送できる(6メガなら12局まで)
で、八木の「カラー化も真空管も技術の進歩でなんとかなる*12が、バンド域の問題は技術で解消できない」の主張が通り、6メガに決定。
アメリカと同じ6メガにする事でガラパゴス化は避けられた、という事か。後年のテレビ輸出にも寄与したようだし。
…しかし、多チャンネル化を予測したのは八木の卓見ではあるが、結局12チャンネルも要らなかった気もする。7メガでも8チャンネル分は取れた。今、関東でも7チャンネルしかないよな。→関連リンク
.
繰り返すが、ドロドロ部分が面白いという科学者と科学についての本だった。
登場人物: 八木秀次 湯川秀樹 朝永振一郎 宇田新太郎 高柳健次郎 本多光太郎 仁科芳雄 武谷三男 安田武雄 長岡半太郎 抜山平一 松前重義 古賀逸策 菊池正士*13
学界での箕作・菊池閥*14も記述があり、鳩山首相もその列に連なるらしい。あそこは政治家ではなく学者が本流なのかも。
.
感想リンク んがっさん 他人の石さん
松尾博志の他著リンク

*1:医学だけは北里柴三郎など突出してたが。

*2:萌えシーンにする為に脳内で勝手に雪を積もらせてたorz

*3:最近では師弟関係でも同様に"〜さん"と呼び合うようにしてる場合が多いと聞いた事がある。一方を"〜先生"と呼ぶと弟子が正しくとも反論しずらいから。

*4:倒れたわけではない

*5:げ。"サステナブル"がgoogleファイト的に形勢悪い。

*6:語としての伸びは限界で後は廃れそう。

*7:「単巻コイルの固有波長の測定」

*8:それまでのアンテナは以下。波長の半分の長さの金属棒を使うと受信しやすい。これは指向性なし。短波では2本の金属棒を波長の半分だけ離して配置すると送信の指向性が得られる。が受信の指向性なし。

*9:wikiでは八木と宇田の共同の発明とされていて、特許庁では『大正14年、「短波長電波の発生」、「短波長による固有波長の測定」等の論文を発表した。これらの発表された理論に基づき、いわゆる八木アンテナの基本となる「電波指向方式」を発明し、特許権を得た(特許第69115号、大正15年)。』と八木の単独発明説を採っている。裁判でもして共同発明なのか単独発明なのか決着つけてくれないだろうか。ちなみにwikiで宇田の尽力を傍証する虫明康人は本書で「死の床から宇田に八木・宇田アンテナの呼称を広めるよう頼まれる弟子」として描写されている。

*10:正確にはジュネーブ議定書

*11:実際に携わったのは曾根有・笹田助三郎など。

*12:結局なんとかなった。真空管自体、過去の技術として使われなくなる。

*13:阪大でのサイクロトロン研究。理研とほぼ同時。

*14:幕末の箕作阮甫から始まる流れ