モダンタイムス (Morning NOVELS) 
「モダンタイムズ」伊坂幸太郎(図書館)を読む。面白い。表紙写真:畠山直哉
ジェットコースータームービーを思わせるような息もつかせぬ展開。「どうも今度の新しい仕事は何か変だ」という穏当な小説の始め方も出来たろうに、初めからトップギアだ。最初のテンションに乗ってしまえば、後は全自動で様々な扉が開いて、読者を思いもよらぬ場所へ運んでくれるだろう。
本書はSFである。ディストピアもの。それも珍しいことに、明るいディストピアもの。
ネット版「1984」。または本書を読んで星新一の「声の網」を思い浮かべる人もいるかもしれない。伊坂幸太郎と比肩されるべき現代作家は「ねじまき鳥クロニクル」を書いた村上春樹だと主張する人も多いだろう。彼らは暴力を描く。そして今1番読者に現代的なメッセージを伝えられる作家だ。伝えようとする意志と技量がある。
ただ伊坂幸太郎の小説は良い意味でも悪い意味でも軽い。チャップリンからの引用はわかりやすいのだけど、そのチョイスは やや通俗的伊坂幸太郎の位置は村上春樹ラノベの間だろうか(春樹寄り)。
以下蛇足。
もし本書を映像化するとしたら、終盤の説明部分(435頁- 436頁-)の台詞が長すぎて処理が難しいだろうなと少し余計な心配をした。作中人物の作家に「小説を映画にして貰ったら、つまらなくなった」旨の発言をさせており、つまらなくなった理由は要は端折られたからだと断言してる。『"省略できるパート"こそ実は大事』という(原作からの)映画論なのだが、ちょうど逆の事を考えていた。映画こそ情報が大量に混じるメディアで、小説こそ読者はブリンカー(遮眼革)を付けられたかのように誘導され放題だな、と。
つまり小説なら
『彼は「〜」と言った。』
で済むが、映画なら その声色・表情も標準で付いてくるわけで、観客は小説内では省略されていた情報を大量に受け取ることになる。それが作り手が企図した情報ではないかもしれないけど映画の情報量は膨大だ。
もし伊坂幸太郎原作の映画が つまらなかったとすれば情報が足りなかったからではなく情報が余計だったからではないか? と考えることもできる。小説内の登場人物はエピソードの不足により、その登場人物と違うモノになったわけではなく、"血肉を備えた役者"という過剰情報により、"小説の登場人物"と異なったのではないか。小説よりテーマがぼやけたなら、やはり小説より映画のほうが余分に情報を含んでいるからではないだろうか。まあ、伊坂幸太郎の言う『"省略できるパート"こそ実は大事』のロジックもよくわかるし、実際伊坂幸太郎原作の映画観た事ないので語る資格ないかもだが。
語句メモ 甚振る(いたぶる)