偽神と猫

結論は無い。ケースバイケースとしか言えない。ただ頭の中のパンドラが少し微笑った。
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ピンポイントでリンクできないのだが、
http://www001.upp.so-net.ne.jp/mercysnow/LinkDiary/index.html
殊能将之(作家)は"野良猫にエサをやるだけの人は好きではない"との事。可愛がるだけ可愛がって世話をしないと周囲に迷惑を撒き散らすという話だろう。
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一時期、俺はジップロックみたいなビニール袋に煮干しをしのばせて外出していた。
近所の野良猫にあげる為だが、果たされた事は無い。警戒された。
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猫をなぜたいのはエゴだ。おそらく本能に近いエゴ。
一時的に餌を与える事で自らも一時的快感を得る。でも、人間ならば動物でないならば"その先の計算"をしなければならない、という声。
でも、どこまでだ? どこまで事態を管理できる? 逆にどこまで馬鹿になっていい?
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人間は動植物を食べて生きる。好きなのは殺さない。そうでないのは殺せる。それが基本原理だ。
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猫に餌を与えない事は、つまり猫の数を増やさない事だ。増えすぎた猫を殺さない為に、今"不作為"によって殺す。確率的に殺す。プロパビリティの殺害。
そういう殺し方を考えることができる
或いは考えない事もできる。
血を見ない事。不在をつくる事。言葉を定義して一歩も動かない事。
でも俺のポンコツ脳はどこかの浄化を連想するし、絶滅種を不作為によって滅ぼしてしまう事がないようする努力を連想する。
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殊能将之が外国の猫の話を紹介している。
野良猫に餌をあげてるうちに大量の猫に囲まれてしまい、ほとんどの猫を保健所で殺した話。
殺すくらいなら餌をあげるな、と殊能将之は憤っている。
悲しい話だとは思うが、何故か怒りが湧かない。人間は常に"好きなものは殺さず、そうでないものは殺す"のだなと確認しただけ。断食してミイラになるお坊さんを思う。
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一時期、というか つい最近の大宮西口では鳥が大量発生していた。ヒッチコックの「鳥」(映画)ばり。
不思議と今は消えているのだが、あの時は駆除を願った。
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殊能将之のスタンスは常識的な正しさを持っている。
常識というのは、蜂のように蟻のように社会的に生きる為に組まれたコードだ。生きやすさを保証する。
地域に大量発生していない状態で猫に餌をあげた場合でも、その一回の悪影響を計算できる。そこまでの計算ができる。=そこまでの正しさを持っている。
或いは そこまでの正しさしか持っていない。
レベルが上がる毎、神を演じているような嘘臭さを付随するかもしれない。レベル上げも良し悪しだ。
連想リンク 地域猫
連想短歌 →c40